ラーメンとちょっと競馬好き

おっさのラーメン食べ歩きとちょっと競馬予想

醤油らあめん(膳)18/23(41杯)通算4074杯

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★品名:醤油らあめん

★お店・メーカー:すすきのらぁめん 膳

★所在:刈谷市築地町

★価格:700円

★カロリー:不明

★ラーメン実食記録:4074杯

★コメント:こちらも昨日同様、ひさびさの訪問です。

先代からすこしづつ、サービス内容が変わりましたね。
 
定食メニューも増え、無料サービスも増えてました。

まぁ無料サービスはやらねばなりませんね(笑)
 
ネギ増し、もやし増し、脂増しにしました♪(要するにフルスペック)
元々、濃厚な一杯です。
 
これにネギを増すことで清涼感アップ!!

お店自慢のデカいチャーシューが炙られ更に味がついて旨い!

熱々で旨味たっぷりのスープにそれに負けないカタめで太い縮れ麺(150g)

そして大量の具!
麺を持ち上げると縮れた麺にスープが乗り、ネギやキクラゲが一緒に
 
口の中についてきます♪
 
はぁ・・・
 
旨いなぁ・・・
 
私は一杯でこのボリュームですので大満足♪

しかし・・・

隣の兄ちゃん、ライス付けた上に替え玉ですと!?!?

若いっていうのはいいなぁ~♪

ごちそうさま~♪(*^_^*)
 
お弟子さんかな?二人みえて頑張ってました♪
 
旭川ラーメンの始まりには諸説ある。1933年(昭和8年)に、札幌ラーメンのルーツと言われている「竹家食堂(大正11年創業)」の支店「芳蘭」が、旭川に支店を出店し、中華麺文化が始まり、1936年(昭和10年)に、現在も存在。
 
「八条はま長」と言う蕎麦屋でラーメンをメニューに掲載したと言う説も
残されているが、第二次世界大戦などの影響もあり、一旦姿を消す。
概して戦前の旭川ラーメンは、札幌ラーメンの亜流的な位置づけで
あったとされる。
ラーメンは「東京ラーメン」のようにスッキリとしたものであった。
戦後は、地元で独自の工夫をしたラーメンが広がり始める。
戦後間もない(昭和22年)にラーメン専門店として創業し
現在まで続いている「蜂屋」と、同年に屋台から始められた「青葉」の
2店のスタイルが旭川に広がっていった。
この頃から既に、Wスープやラードと言った旭川ラーメンの特徴と
される要素が形作られている。
 
次いで1950年には特一番が、1952年には「天金」が創業しラーメン店が
増え始め、徐々に市内で浸透して行き、現代まで続く旭川ラーメンの源流
となった。
初めて多店化したのは特一番(10店舗)であり、現在も市内に5店舗が営業している(2013年)
又暖簾分けも「新特一番」「味特」などがあり、東京近辺でも「特一番」が
チェーン展開するなど、当時の繁盛振りを物語っている。
「味特」は札幌にも進出しラーメン横丁に出店しその後東京六本木防衛庁前に
天鳳」の名前で出店(昭和50年頃)し芸能人はじめ著名人が多数訪れて
山頭火」よりかなり早い時期に雑誌等で取り上げられて
全国区のラーメン店であった。
現在も「ドラムカンスープ天鳳」としてラーメン横丁で営業している
旭川ラーメンの店である。
「特一番」は多店化したが地域のニーズに合わせてラーメン専門から
食堂的な展開を進めたため、ラーメン専門店としてメディアに取り上げられる
ことが少なくなってきた。
「蜂屋」「青葉」「天金」は多店化をせず専門店としての灯を守り地道に
営業を続け現在に至っている。
「特一番」は本店店舗地下に製麺工場があり自家製麺を使用していた時期が
昭和30年代後半まであった。
昭和60年に同所に店舗併設の飲食テナントビルを建設する際に工場の機械を
破棄した。
旭川ラーメンでは製麺所の麺を使用する事が多いが、
これも昭和30年代の旭川ラーメン黎明期より、
麺の卸からラーメン作りの指導までを製麺所が先頭に立って
指導を行ってきた所以とも言える。
またラーメン店と製麺所の結びつきを象徴するエピソードとして
蜂屋の創業者である加藤枝直と、蜂屋と同年に創業され、旭川市内で
大きなシェアを持つ製麺所、加藤ラーメンの創業者である加藤熊彦は兄弟であり
共に蜂屋のラーメンを作り上げた事のみならず
創業間もない「青葉」に麺を提供するなど、旭川ラーメン全体に大きな影響を
与えた事も挙げられる。
 
ちなみに「ドラム式」、はじめて知ったのが、包丁人 味平でした♪